Twitterを見ていたら、こんな記事があった。春画の巡回展が企画されているらしいのだが、どうやら日本の美術館は二の足を踏んでるみたいで。
春画 アートなのに… 国内巡回展は開催難航
2013年5月19日 07時12分
葛飾北斎の春画を鑑賞する人たち=東京都中央区のフェルメール・センター銀座で(坂本亜由理撮影)
男女の性愛を描いた春画の本格的な展示会が今秋、英国の大英博物館で開かれる。この巡回展が日本でも計画されているが、主要な美術館などから、軒並み受け入れを断られている。春画は近年、芸術性が評価され、女性の鑑賞者も増えている。一方で「わいせつ画」のレッテルを貼られた歴史が長く、公の場での展示には難しい問題を抱えている。
芸術に関する定義ってのはなかなか難しい。以前も同じような記事を書いたけど。
上の記事にも書いたけど、結局は見る側の主観なんだよね。それを卑猥ととるかどうかは。だから卑猥だ卑猥だと騒ぐ人は、結局本人が一番卑猥だと思うんだけどね。怒られそうだけど(笑)
単に裸を見てそれが卑猥か芸術か。それともただ裸なんだなーと思うのか(笑)あくまで見た人の脳がどう判断するか?っていう定義付けにすぎない。
ある意味、作者が「これは芸術なんだ!」と言えば芸術としての定義が始まる。その定義によって紹介されるメディアが定義される。たとえば、芸術として出たのなら、アート紙などに紹介されるわけだ。もし最初に、「これはグラビアですよ」といえば、週刊誌とかに載る事に。
低俗か、高尚かというのも、所詮は定義付けでしかない。
年代を重ねて、サブカルとしての地位を得て、名を挙げて行くと、どんなに低俗なものであっても、芸術になる事もある。その辺の定義は本人の意思ではなく、周りの思惑に乗って行くっていうのもあるのだろう。写真家のアラーキーとかもそんな感じだよな。週刊誌での写真とかを撮りまくっていた事により、名が売れて写真家としての地位を確立する。その事によって「アラーキーが撮るもの」=「芸術的」という、雰囲気が出来上がるんだよねえ。
一度その定義がついてしまうと、何をしても芸術になり得る。そうゆう気風を上手く利用しているのは村上隆氏とかだよなあ。
春画も言ってしまえば、江戸時代のエロ漫画なんだよね。結局それをみて、江戸の人々は妄想にふけり、自慰行為をしていたわけで。低俗であったことには変わりない。それが年月が経って、文化としての基準もシフトしていくと、いつの間にか芸術になってる事もある。
また、その文化内では当たり前の事でも、海外に出た時に芸術となる場合もあるわけだ。真新しくて方法論が違うものは、得てして芸術として捉えられる事があるんだよねえ。ただ、元の文化圏からすれば割と当たり前だったりすることとかだったりすると、それが芸術として認められた時に「?」な状態になる。日本ってそうゆうものが結構あるんだよなー、意外に。文化的にもガラパゴスというか。なんでだろうね?
で、春画はどうなんだよ?って話なんだけどやっぱり主観の問題になっちゃう気もするんだよなー(笑)でもね、それを判断する倫理観ってのも、西洋の受け売りだったりするんだよね。西洋化が進む前はもっとおおらかだったみたいだし。
というわけで、判断するために、美術館では展示をやってほしいなー。18歳未満入場制限でもいいから。
こうゆう展示って、展示の内容を判断する事もあるけど、自己の判断材料にもなったりするしね。いいと思うんだけどなー。