実は大学は歴史学科だった。歴史にロマンを求めていた時期はあったのだが、そこで学んだ事は、歴史なんて物は、所詮、創作された物語でしかないと言う事だ。
当時、「神の手」と呼ばれる考古学の発掘者がいて、話題になっていた。歴史が覆る様な大発見は、実はその発掘者が事前に埋めたものだった。
そもそも俺は歴史がノンフィクションだとは思っていない。世界基準の歴史があったとしても、それは地域的な差異までは含まれてはいない。あくまで「大雑把なもの」でしかない。
歴史的な資料は、それを編纂した時点で、編纂者の私的要素が入る。敵か見方か、侵略者か、解放者か。それぞれの政治的な立場や、国家的な立ち位置、宗教的、思想的見解によって全てが変わる。大体国ごとに歴史の教科書で書いてある事が違うなんて事がある自体おかしい。
「当事者の言」だってそうだ。事実に個人の感情が入り込んだ時点で、それは平等な立場での意見ではない。また、当事者自身が、その事情を理解していない場合だってある。後から為政者に当時の政治的背景を吹き込まれ、さも被害者であった様な言動をとる。
また、後世の人々がそれをとやかく言うのも筋違いだ。それは結局その立場からした「意見」でしかない。与えられた資料を元に、当時を「想像」する。それが歴史を「創造」する作業になる。数字的な事実も推量から水増しされることだってある。
建造物やその破壊による被害など、物証が残っているものもある。その事実は変わる事は無いのだが、それに至る過程や目的は、時の為政者の政治方針によって変わって行く。
友好的な態度を取りたいのであれば、その被害者は無視されることになるし、敵対的な態度を取る場合には、英雄に祭り上げられる。政治的な方針によって歴史なんてものは簡単に変わってしまうのだ。
今の教科書では犬公方こと徳川綱吉はそれほど悪い将軍ではなかった様に書かれている様だし、聖徳太子の記述も無いそうだ。それは歴史的な見直しがあったのだろうが、学閥の力加減や政治的な意味によって変更される事だってある。
世界が一度滅亡して、日本という形態も無くなった後の歴史で、「戦国BASARA」が発見されて歴史資料になんてなってしまったら、過去の歴史で伊達政宗は「Let’s party!」と英語を叫んでいた…とかなりかねないしね(笑)
結局、議論で歴史的な認識という発言が出た時点で、なんだか裏付けの無い証拠を提示された感じなんだよな。それは大枠での政治利用でしかない。
歴史を振り返り、考え想像する事は楽しい。そしてそれを想う事は価値のある事だと思うど、それはやはりアカデミックな範囲に留めておいた方が良いのだろう。
歴史ほど使い勝手のいい方便ってないからね、政治的な話になると。