歌舞伎の問題作?弱者を装い悪を行う『不知火検校』
あらすじやら普通の感想やらを書いているのだけど、もうちょっと毒を含んで書きたいなーと思いつつ、『言いたい放題』というカテゴリーを作ってみた。こっちではあんまり気にせずネタバレ有りで、ガンガン書こうかと思ってるよ。
ネタバレなしの普通の感想は以前の記事、不知火検校 九月大歌舞伎(新橋演舞場)に書いてあるのでそっちで。
『不知火検校』はガチで面白い
新橋演舞場、九月大歌舞伎、松本幸四郎主演の『不知火検校』はガチで面白いので観た方がいい。まだやっているので是非。新橋だから地味なのか、満席にはなってなかったので(笑)
ただまあ人を選ぶ作品であることはある。36年ぶりの再演で、母は以前中村勘三郎(先代のね)がやったのを観たと言っていた。主人公がともかく嫌らしいので、観ていて嫌な気分になったといってる。ベタな話とか好きな人はそうだろうねえ。
二代目検校となる按摩富の市は、金を求めやりたい事をやりまくる。
按摩富の市時代はやる事もセコい。
盲目である事を利用し、人の良心に付け込む。盲目で按摩である事を利用し、簡単に人を殺し金を奪う。
彼のそのやり口は弱者である事を利用し、相手の良心や警戒心を封じ込める。まるで、生活保護の不正受給者の様。
人は障害を持っている人を、無条件で信用する部分がある。障害があるのに頑張っているとか。障害を持つものは善人である事が前提の様に考える。
「可哀想」という前提があるのかもしれない。哀れみを持つことで、自尊心を満たしているのかもしれない。
そこに按摩富の市は付け込む。だから、夜中の峠で大金を持っているのに、富の市に按摩なんかを頼んで、頸椎を刺されて殺されてしまうのだ。
自分の師匠、「不知火検校」を殺す時も、仲間である鳥羽屋丹治らが罠にはめようとした事を見抜き、逆に言いくるめ、彼らをより深い悪に染める按摩富の市。には目アキには見えてない人の欲が見えている。そこをうまく乗せる。
二台目不知火検校になってからはその悪の規模が大きくなる。検校と言う役職は、按摩の総括の様なもので、大名クラスのステータスがある。その社会的ステータスをバックに大店に入り込み、中を調べ仲間の鳥羽屋丹治らに盗みに入らせる。
自らが気に入った茶屋の女湯島 おはんを男の借金のかたに女房にする。しかし、おはんは前の男、房五郎と逢引きを続ける。目の見えない検校を謀っているつもりのおはんと房五郎。だが、検校は全てを知っていた。分かった上で泳がせていた。なんと性格の悪い。寝取られマニアか(笑)
検校は長持ち職人である房五郎に長持ちを依頼する。これで堂々と家で逢引きができると喜ぶおはんと房五郎。しかし、長持ちが完成した時点で、検校はおはんと房五郎を殺してしまう!そして、おはんが可愛がっていた猫も!
検校に取っては女房も猫も一緒なのだ。飼っていたペットがおいたをしたので、処分したにすぎない。
検校は兼ねてから計画していた事を実行に移す。それは幕府の御用金を盗む事。
幸いにも富の市時代から懇意にしていた岩瀬藤十郎が御用金番に付く。それを利用しようと言うのだ。
その計画を聞いて恐れる鳥羽屋丹治や弟の玉太郎や生首の次郎。しかし、検校はやれると言う。
検校を信用する岩瀬藤十郎は検校が訪れる度に、ベラベラと内情を話す。そして、企みを結構する時がきた!
悪事は終わりの時がくる
企みを実行する為に籠に乗り、城に向かうの検校達。しかし、目の前に役人が現れて、彼らを囲む。
兼ねてから、検校の事を恐れていた玉太郎が役人に密告したのだ!
捕縛される検校達。その姿を見て、街の人々は検校に石を投げつける。
「お前達が、心の奥底で燻らせている事をやっているだけだ!」
花道を行く検校は目をカッと見開いて、見得を切る!この時、目は白目!
「お前らの見えている世間体なんてもんは俺には見えない。だから誰もが心の奥底で持っている欲望を、俺はそのまま出しているだけだ!」
最後の台詞に検校の悪の美学が詰まっている。何も言えなくなる街の人々。その中を堂々と引かれていく検校の姿を見送り、幕を閉じる。
幸四郎の当たり役…な気がする
なんとなーくお兄さんと比べて、地味な印象だった幸四郎の当たり役な気がする。息子がやった伊右衛門といい、底意地の悪そうな役が実はハマるなあ(笑)滑舌の悪さも気にならなかったしね(笑)
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